「煉獄」って?

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   心にも層・格があり、一番低い層は「現世」「娑婆」、次の層は「修行」の段階。次には「無欲」最後は「空」とでも名付けましょうか?「空」では総てが浄化されて空気のごとく軽くなり明るく輝いています。今までにも何度か夢の中で天空から地上を眺めているような気分になったことがありました。自分はどうやらこの世を去ったらしい。ここはあの世。遂に自分も天に召されたらしい。もう地上の雑事に巻き込まれずにすむのか?安堵の気持ちに包まれます。ここでならずっと昔に先に逝かれた母、父、恩師、友人達に逢える。今までの事が夢のように脳裏を過る。皆思い出になっている。まるで冷凍された鮮やかな植物達のように。これからは沢山の幸せな思い出を次々解凍してそれぞれを味わうだけ。人知れずひっそりとあったかなかったかも定かではない私の命。もう地上の掟はここまで届かない。地上では未だに戦争は止まないし、ひどい邪悪な詐欺は横行しているし、物価は高騰し続けるし病は減らないし、異常気象は改善されない。地上では予測できない災害がひっきりなし。追い詰められて泣き叫ぶ人々・子供達を目にするのは辛い。この世の地獄。こんな気持ちに落ち着くまで優に5~6年かかった。始めは今までの現世での生活、1軒家に住み気ままに暮らしていたことの記憶の中で、施設生活の不自由さを託っていた。こんな殺風景な施設生活には慣れるしかないと観念し、少しづつ周囲に紛れた。体力も気力も衰えてゆくのだから物(物質)は消えていくのは当然だし自然。そんな数年間の施設生活の中で物質的欲求はほとんどなく無くなってしまった。欲しくても手に入らないのだから諦めてくるらしい。今この部屋には数枚の衣服と、数冊の本、パソコン、プリンターとTVのみ。何時あの世へ旅立っても後悔はしないだろう。娑婆に居た頃使っていた食器の数々、骨董市で見つけた愛らしいティーカップ、美しい皿の数々。銀のアンティークのスプーン等。どれももうないし不要。思い出だけを残して消えた。あの世へは持って行けないからと遂に諦めたのはつい最近。施設に入ることは娑婆の未練を禊することだと思いあたったのだ。だから欲はなくなり「今日は御そばを食べたい」「お寿司を食べたい」等とは思わなくなった。世の中には食べられない人達がいるから贅沢は言うまいと思うと食欲は消える。そのようにしてかなり忘れた・るように心した。こんな風に食の欲望は消えた。それはそれで気持ち良かった。納得したから。でも頭の中での美味しいものは一層美味しそうに輝き香っている。料理番組にはくぎ付けになった。台所がなくても頭の中に広々としたキッチンが広がっているし、大好きな旬の食材もそろっている。面倒な洗い物もせずにすむ。空想台所なら楽しめる。実際に食したらお腹はきつくなるし、コレステロールが増え体重は増え成人病になったりと良いことない。

   抗議もしなくなった。抗議の種がなくなったのだ。無気力。だからブログを書くのも実は無意味なのかもしれない。でも寂しい老後を過ごしておられる仲間達を少しでも元気づけることが出来ればそれで良い。しかし快適な空間、太陽の光、新しい空気が満ち、季節の風がそよぐ所。花々が咲き薫る場所は欲しい。永遠に探すだろう。私の欲望はそれだけになった。

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