「施設」暮らしは誰でもが必要なわけではありません。身体障害の方、発達障害の方等が必要な生活空間です。若くても何らかの障害がある方でも家族が介護出来る間は施設にはなかなか入れないようです。私の場合は78歳(令和6年現在)なので「高齢者介護ホーム」という施設に入るしかありません。今までの住み慣れた自宅での生活を諦めたのには訳があります。在宅介護をお願いして自宅でも生活出来たらそうしたかった。しかし自分は右足が効かなくなっているのでトイレを介助なしで一人だけではすませられないために24時間介護員が常駐している施設に入らなければ生活が出来なくなっているのです。トイレに行けないために施設暮らしをしなければならないなんてと思いません?そうなんです。人間らしく生活するためにはトイレにきちんと行けないと社会人としてまずいんです。子供を育てる時にまずきちんとトイレに行けるよう教えますよね。私は頭はクリアですが足だけが不自由なので施設生活は色々な意味で窮屈です。でもここでお世話になるしかないのです。
施設に入るためには煩雑な事務的書類手続きの外にある心構えが大切。施設は集団生活の場なので私個人の要求は2の次、あるいは殆ど無視されます。ですから自分中心で生活してきた自分はそれを受け入れ、慣れるしかないようです。これが1番辛いこと。時間が自分の時間ではなくなるから。例えば入浴の朝、何時に入れるかなんて前もっては分らない。介護員さん、他の入居者さんたちとの兼ね合いで決まるから。何時に入れるか?と気を揉んでいるうちに私の時間がある意味ズタズタになります。生活のリズムが崩れる、それを自分の流れに戻すのに時間がかかるのです。良いアイディアが浮かんでも流れが消えているとアイディアまで消えてしまいそうで思いの外疲れます。施設に入る以前は1日は朝のスケジュールのイメージから始まりました。朝食後には仕事に出かけ終わったら帰宅し午後の買い物、夕飯。シャワーで一息ついてテレビを見て就寝。それらは緊密に微妙に繋がっておりその流れは滞りなく一定のリズムに乗っていました。しかし自分の生活と異質な施設に入って時間の流れがぎくしゃくしてきました。数年前はそれだけで苛つきましたが、今この年になると自分の能力なんて大したものではないと思ようになっているので、何も出来なくても「仕方ない」と納得し諦められるのです。締切日・仕事に追い立てられることがないってなんて楽なんだろうと頭を空にして「これで良いのかも」と・・・
でもやはり頭を使わないと怖くなります。「空っぽ」は怖い。この虚しい空気が一杯に漂っているのが施設です。この虚しさの中で如何にして「楽しく生きてゆこうか?」それが問題なんです。私の場合文章を書くのは(書ける)は気持ちを立て直すために必要です。気持ちが立ち直れば楽しい事を思い出せるし気持ちも軽くなります。気持ちが軽く煩わしさが消えると俳句を作りたくなったり、書きたい事を書き出せるのです。
自分の場合は文章を書くことが趣味と言えるかもしれません。誰に読んで欲しいわけでもなく親しい友達と話すような気持で書いています。
時間がたっぷりある施設生活をしてゆくためには何か趣味がある方が退屈知らずで気分も楽になれます。刺繍、編み物、読書、書道、絵画、和歌、俳句、合唱等今までは忙しくて出来なかったことを施設に入ってなら心おきなくいくらでも出来ます。
恐らく年代にもよると思いますが、これからのIT時代が進んでゆくとパソコンは必需品になります。PCを操作出来れば友達・仲間とのZoomも出来ます。顔を合わせての会談もネット飲み会も、暑気払いランチも、ティーパーティも出来ます。世間話も楽しい。知らないことを新しく知ったり教えてもらったり出来世界が広がってゆきます。施設にいるだけだと益々「井の中の蛙」に甘んじてしまいがち。施設に入ってしまうと今までは自由に出来ていた寄席に出掛けたり、展覧会にも美術館にも行けなくなる。門外には出られなくなります。最近はバーチュアル美術館があるので疑似体験は出来るようになりました。テレビ、パソコンを大いに利用して心を生き生きさせるよう心掛けたいものです。パソコンを操作出来れば動画編集・データ処理等も出来ますから。ブログも公開出来れば仲間の輪が広がるでしょう。こうしたIT機器を大いに使い余生を楽しめたらなと思います。
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