叶わぬ恋

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   その人に会ったのは彼の研究室であった。 なんでも友達の妹さんが通っている針の先生に仕事を頼まれたから手伝ってくれないかと私を誘ったのである。友達の妹さん(Uさん)と2人で先生の研究室で待っていると颯爽と白衣をなびかせて風をまとってその人は入ってきた。 「今度京都で鍼灸学会があるので、その為のパンフレットを編集するから手伝ってくれませんか」という話であった。 鍼灸には以前から興味があったのでお引き受けする。 鍼灸の小冊子を見せてくれて「これを英訳して欲しい。学会に来る外国の先生たちに読んで欲しいから、私も手伝います」と仰り、数冊の分厚い辞書を出してきた。 医学辞書、漢方辞書等である。「私の仕事が終わってから、お二人が訳された文を見て直せる箇所は直してゆきましよう」ということになった。私共は翻訳する文を2人で分担してそれぞれが1週間後に持ち寄って先生と翻訳文を見てゆくことになった。 一週間後、翻訳が正しいか正しくないかも判断出来ないまま研究室に集まった。 出来るだけUさんと2人でも分からない事や、語句を考えていると、先生が現れた。白衣を着たまま我々が疑問に思った事などを話会った。ひとしきり目途がつくと、後の残りは我々の宿題になり、「今夜はxxへ行こう」と白衣を脱いだ先生と3人で暮れなずんだ町に繰り出した。 「ここはチェコ料理の店」といいながら、常連さんのようにあるレストランに入る。 昔チェコを尋ねたことがあるそうで、「チェコ語と日本語には似たところがある」そんな話をなさった。 そんな数時間を過ごし「又来週」と別れた。 数週間後、先生の友人で雑誌の編集者でスポンサーという方が加わった。 4人で夕暮れなずんだの麻布の瀟洒なレストランを選ぶのは楽しかった。 学会の開かれる京都行のスケジュールも速やかに決まっていった。 我々がいくら頑張るといっても、医学関係の翻訳のプロではないので自信はなかった。 それでも「読者は皆医師だから、少し位日本語の意味があやふやでも医学用語がはっきりしていれば内容は分かるはずです。」との言葉に勇気付けられて翻訳の仕事は捗った。 最終校正は先生にまかせた。粗削りなパンフレットは学会までには刷り上がったよう。

   京都では、駅近くの「ホテル藤田」に案内された。 かなり広いスィートの部屋。 友達と着替えて京都の町を歩いてみることにした。 夜はどこで食事しようかとあちこち探した。 我々は招待客なので贅沢してもよかったが2人共慎ましくお蕎麦を頂いたっけ。 夜は夜で、海外(フランス、中国、ドイツ)からの招待客が5~6人私共ホスト側を入れて10人を超える大きなグループになり和食の店に入った。 私達2人はお客様の間に入って、通訳をした。 日本文化や、京都のあれこれを英語で説明し喜ばれた。 中国の先生からは「お礼に」と、細かい模様を彫った透かし模様の扇子を頂いた。 学会の行事は3日間続いた。 会議場では前もって我々が翻訳した冊子を配っていたのであまり働かなくても良かった。フランスからこられた解剖学の教授は「つぼ」という概念が分からないらしくしきりに首をかしげていた。中国の先生はさすがに本場の先生で食事の席でも拙い英語をお使いになり説明を試みていたようだ。そんな招待客をもてなすY先生は若々しく張り切っておられた。時々「P先生に~と伝えたいんだが英訳して欲しい」等の通訳を頼まれた。日本で漢方医学・治療が取り入れ始められた頃の事である。西洋(ドイツ)の医学が主流だった日本では漢方は保険も適用されない医学であった。今のように気軽に漢方を使えなかったのだ。科学的エヴィデンスの数が少なく、漢方は高価であった。Y先生は漢方を積極的に西洋医学に取り入れようとなさっていたのだ。それで西洋の医者たちに知ってもらい融合させたかったらしいのだ。だから学会のスポンサーには日本で漢方の老舗であるK社、T社がなった。

    東京に戻ると、数か月後に友達の妹さんUさんの結婚式があった。式場でY先生が「まだ少し翻訳が残っているので、この後ここ(北里病院)を辞めて国(三重県)に帰ってしまうので三重に来てくださいますか?」と尋ねられた。どうせ夏休みになるので暇だから先生の仕事の手伝いに三重に行っても良いので返事は「はい」だった。大学で学生の期末試験を終えるとすぐに三重に行った。ホテルから電話するとこれから迎えに行きます。先生の病院で先生の仕事(先生の論文の英訳)に取り掛かる。要領は今までとほぼ同じ。どの位時間がかかったかは覚えていないがとにかく仕事を済ませた。多分2日間程仕事をして、最後の日、帰り際に一枚のCDを下さった。帰宅してCDを聴くとエルガーの「愛の挨拶」であった。いい曲と嬉しかったのを覚えている。先生はチェロを御弾きになる。その後「漢方」のことは暫く私の生活圏には入ってこなかった。今になって自分が如何に鈍かったかを思う。ひょっとして、あの時自分から先生の懐に飛び込んで行けたのにと思うことがあるが、それができなかったのは機が熟していなかったのであろう。実を結ばなかった恋である。もしお目にかかれたら昔のご縁の経緯を素直にお話できるか賭けてみます。 

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