コロナが猛威を振るい始める頃、家を出て施設暮らしになった。5年が過ぎた。コロナ前とコロナ後とでは世間の音、色、匂い、佇まい、景色はガラッと変わった。時代が変わったと言えるかもしれない。令和だが、令和前期・後期って言っても構わない。前期は、まだ総ての手続きが、アナログ式で慌てないですんだ。しかし後期は、デジタル化が進み、馴染めずに狼狽える人も少なくない。デジタル式の怖い所は、あの小さなチップ内に総ての情報が入っており、本人が望まなくとも、物事が勝手に動いてしまうこと。
家の周りも様子が変わった。あの角にある、今にも倒れそうなぼろぼろの古い家には、まだどなたかが住んでいるらしい。時折一人のお婆さんが庭に出て、腰に手を当てて、落ち葉を掃いたりしている。柿の木には、秋には紅い実がなっているし、古い種(しゅ)の花・おしろい花が咲いていたり、時々は、窓がひっそりと開いており、人の気配がする。しかし時間の問題だろう。近い内、ここは更地になり売地になる、不動産屋の看板が立ち、きっと誰かが購入し、新しく家を建て住み始めるだろう。あの角のフェンスには、まだあの(定家)カズラが巻き付いて綺麗な花を沢山つけている。紫式部の青い実も今年はなるだろうか?あそこの垣根のお茶の白い花は咲いた?そろそろ咲いても良い頃だし、山茶花も咲き出すだろう。北風が冷たくなる。冷え性の私の手は霜焼けで痒くなっている。すぐそばの曲がり角を左に曲がればお庭の広い家の前に出る。園芸がお好きなお宅なのだろう。珍しい花が咲いている。花殻を摘むだけでも大変そう。ちらりと横目で見ながら通り過ぎる。
小さな公園の前を通り通りに出ると小さな『米屋』がある。この店はこの町では老舗で、店を仕切っていたご主人が、年をとり引退して、今は息子さんが店主。私の幼な友達で、近くのススキの原っぱで遊んだっけ。今では、この町のウルトラマン商店街祭りを仕切り、町をあげての「ウルトラマン祭り」を子供達のために開催している恰幅の良いおじさんである。フィギュアのぬいぐるみにも入るらしい。奥さんは米粉でシフォンケーキを焼き、注文予約をしている。秋にはご自分の畑(地方での)で収穫したお米で餅付きをしたり通行人に配ったりと忙しい。
次には所謂『タバコ屋』の『福神』という屋号の店で主に酒類を売っていた。入り口ではタバコも売っていたし、葉書も切手もここで買えた。酒の肴(スルメイカ・ピーナッツ・柿の種等)も買えた。卵も買えた。奇妙な万屋(よろずや)であった。時には仏様に備える仏花も売っていた。父はこの店のお得意様で、良くビールの配達を頼んだ。こういうのを「御用聞き」と言った。こんな習慣は、もうすでに、なくなってしまった。タバコも自販機で買えるようになり、こんな店は徐々に消えていった。葉書も「もう売れなくなったから店には置きません」となり、ここでは買えなくなった。葉書で手紙や挨拶もしなくなり年賀葉書を買うこともなくなった。
この店の前には」小さな「煎餅屋」があり、割烹着を着たお婆さんが店に座り火鉢で煎餅を焼いていたっけ。香ばしい醤油の香りが漂った。この店もいつの間に消えた。
隣は和菓子屋。矢張りお婆さんと娘さんが自宅の工房で練り切り、あられ、かき餅、饅頭・羊羹・おはぎ等を作っていた。この店のファンも多かった。この店は今はどうなったか、どなたか教えてください。
こんな風にゆっくりと時代が変わっていった。
ネット検索(ウルトラマン商店街)についての紹介文をここに紹介しておく。
「祖師ヶ谷大蔵駅を最寄り駅とする南側、砧には今も東宝撮影所やTMC(東京メディアシティ・旧国際放映)、映画やテレビの関連企業が多数、そんな砧7丁目に、特撮の神様・円谷英二氏が1963年、円谷プロダクションを誕生させた。
近隣である商店街には撮影所の関係者が日夜訪れ、砧・祖師谷の商店街は地域住民のお買物場所であると同時に、映画・特撮の方々とともに発展してきた。 そして2004年。全国的に「街づくり事業」が発案されていた中、世田谷区の職員による「世田谷売り込み隊」が音頭を取り、円谷プロダクションはじめ地元の各種団体、3つの商店街が地域連携。2005年4月、円谷プロダクション「ウルトラマン誕生の地」として「ウルトラマン商店街」が発足。
祖師谷の北から「祖師谷昇進会商店街」「祖師谷商店街」、そして砧の「祖師谷南商店街」と3つの商店街が「ウルトラマン商店街」として発足し、2020年には15周年を迎える。 ふだんは3つの商店街がそれぞれに事業を行っているが、毎年夏と冬の2回開催している売り出し(福引)事業や、合同で行うイベント(ハロ―ウイン)等は「ウルトラマン商店街」として活動してる。「ウルトラマン商店街」として、ヒーローや怪獣を呼んだイベントを行ったり、ウルトラマンのオリジナルグッズを開発・販売をしたりと、3つの商店街が手を携え協力し合い、歩んでいる…それが私たちの「ウルトラマン商店街」である。」
この他、沢山の写真も寄せられており是非このページを読んでください。
そのまま駅へ向かうと右手に『大蔵クリーニング』があり、これも古い店。ご家族で経営。若い姉妹達がいそいそと働いている。四季折々、冬物のオーバーやカーテン等の大きな洗濯物はここに任せた。
その隣は魚店『魚見』ここも、姉弟で切り盛りしている。毎朝、魚を魚河岸から仕入れるそうで、ここの魚も鮮度抜群だが、値は高め。アサリ等の身はふっくら大きくスーパーなどでは中々お目にかかれない。この店には、生前の母も良く立ち寄った。母は店番している姉の彼女とよく立ち話しをして、ご近所の噂話「何とかさんの息子さんは、どこどこへ就職したそう」等を仕入れ、夕方の食卓での会話が弾んだ。所謂井戸端会議だが、もう余り見られなくなった景色である。
そのまま路地を右に入ると『エッセン』というハム・ソーセージなどの加工食品の店。ご主人自ら厨房に入られ、製品をお創りになる。味に秘密の一工夫あるらしい。ここのハムは絶品。サンドイッチ用に良く使わせて頂いた。
この店を過ぎ真っすぐ行くと左側に八百屋がある。『石狩屋』と言う名でご夫婦と息子さんが店に立っている。時々は息子さんとご主人が軽い喧嘩をしているのが聞こえて楽しい。ご主人が、朝早くから仕入れた近隣の町の野菜を並べている。それらの鮮度は抜群。国産しか仕入れないそう。イチゴが出回ると小ぶりの一箱を買い、ジャムにする。この町も高齢化でこの家族も大変そう。でもこの店の前を通り、家に帰る時は、我が家が近くなったとほっとする。不愛想な御上さんの甲高い声が、明るい。
『焼き鳥』の店もそのすぐ隣にあった。夕方になると、ねじり鉢巻きの若いお兄さんが、鳥やネギを焼く匂いが香ばしく香った。ここでは当日、客は欲しい焼き鳥品目を、店の注文カードに記入しておき、希望の時間に受け取りに行き、それまでに焼いてもらった商品を受け取る事も出来た。注文の品を客の目の前で焼き、それを歩きながら食べる人もいた。そんな長閑な店であった。この店もいつの間にか消えてゴタゴタとした中古品の店になってしまった。
隣りに『豆腐屋』があった。ご主人は、早くから豆腐を作り、早くから店を開けたから、朝一で豆乳をコップ1杯買い、朝の道を家に帰るのは、得をしたようで思い出深い。この店もご夫婦2人とも年を取りどこかへ引っ越し、店は姿を消した。
その後は何時の間に『たこ焼き』の店が出来、学生さん達でにぎわっていたよう。
しばらく行くと『牛乳屋』もあった。毎朝、瓶詰めの牛乳を、各家の木箱に配達してくれた。「牛乳受けの木箱」などはもう骨董品になる。今ではどこにも見当たらない。
その隣は『氷屋』その頃は電気冷蔵庫などある家は極少なかったので、氷冷蔵箱に、㎏単位で氷を買い箱に入れ、肉・魚類等の商品・物を冷やした。そのため『氷屋』が配達してくれる氷は、生活必需品であった。大きな氷が届くと、台所まで運んでもらった。ネギ等野菜・白菜・大根・かぶ・人参類は庭の土を堀り、そこに軽く埋めた。必要な時に庭から抜いて泥を洗い使った。
こんな風に、この数年間を振り返ってみると、通りの店も様変わりした。大手のスーパーが進出したきたから、通りの小さな(個性的な)店は、スーパーに飲み込まれてしまった。酒屋も八百屋も皆どこかへ立ち退き、寂しくなった。今ではもうないだろう電気屋の出前、電球を付け替えに家に来てくれたのだ。電気類の相談にも乗ってくれた。小型の機器は手ごろな物を持って来てくれて使い方等教えてくれた。こんなサービスも気軽にしてもらった。安心出来た町であった。
駅前には下駄屋、お茶屋、おもちゃ屋・自家製の手作りのおでんの具を売る店などがあった。今はもうない。新しい大手のスーパーが出来、こうした小さな懐かしい店は何時の間に忘れられてゆくが、決して忘れて欲しくない。古い店の事を、思い出せるだけ書き留めておきたい。
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