最近、施設暮らしがひどく寂しい。楽しい老後ってどういうことを言うのかを考えていたら詰まる所あり得ないことが分かった。矢張り体力も無くなり、思うようには動けなくなってしまっているし、自由にはあちこちと動けなくなってる。自由に動けるのは、基本的人権の「行動の自由」だからそれが出来ないのは基本的な自由がない事で、高齢者のほとんどは動けず溜息しか出来ない。そんな自分が「楽しい」と感じられるのは唯一「句」が立ち上った時。友達の顔を見ることが出来る時。後は外気浴で外に連れて出してもらい、秋空の下、小さな庭で咲き残った花に出会った時。自然の空気に触れて肺に空気が入る時、多分酸素のお蔭。細やかな事でも有難い。人員不足でめったにはこんな機会は極たまにしかない。もう我慢するしかないのが高齢者達。溜息だけが自由。
それよりも増して辛いのはここでは何も感じないのだ。感動がない。嬉しくもないし、悲しくもない。物音の聞こえない穴の底に座っているだけのよう。無感動って、初めてかもしれない。いよいよあの世へ行くのかしら?
温暖化のせいで季節も壊れかけているし、人の心も宇宙の一部なので宇宙の秩序が壊れると狂ってくる。季節に優しく抱かれていると人は安堵する。こんな安堵感を感じなくなってはいないだろうか?
「目の前のことを粛々とやっていくしかない。ケ・セラ・セラね。死ぬ時はどんな状況にいるかなんて誰にも分からないんだから・・・」穴に落ちているのかも、転んで起き上がれないのかも、誰にも予測なんて出来ないんだから。
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