介護認定

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   数年前、階段から足を踏み外し、床まで転げ落ち、しばらく気を失い、気が付くと打った頭から大量の血が流れ出していた。慌てて119に電話して救急車を呼んだことがあった。朝の道路をまっしぐらに救急病院まで、そこで朝一で救急の医師達に頭を5針頭を縫ってもらい、妹に付き添って貰い砧の家に戻った。頭に包帯をしたまま、すぐに自転車で買い物に。普段通りの日常に戻れたが、階段は怖くなった。登りより降りる方が怖くなった。独り暮らしが無理になるのかと怯えたが、「仕方ないのかも」と考え、主治医のA先生にお伺いするとそろそろ「介護認定」(https://kaigo.benesse-style-care.co.jp/article/knowledge/beginner/shienkaigo)しておくのが良いとのこと。帰宅して役所に行き「介護認定」を申し込む。暫くして「介護認定委員」が私の介護度を認定しに来る日が決まった。ある日、家に認定委員が来られていろいろ質問してくれた。「足はどこまで上がりますか?」「手は?」「お風呂には一人で入れますか?」等。1週間ほどで結果が出るそうで、やれやれと一安心。結果は「介護度3」。やはりいくら頑張っても一人暮らしは無理になるのは目に見えている。優しく見守ってくれる夫がいる訳でもないから、困った時に、即座に来てくれる介護員がいれば、事はすむのではないかと思った。

    介護認定すると自分がどのようなサービスを受けることができるか?が分ってくる。出来るだけサービスを利用し老後を快適に過ごそうと考えるようにしたい。認定を受けた後、私担当のケアマネさんが「ケアプラン」を作成してくれた。介護サービスを、どの程度使えるかなどの説明も受けた。

     介護保険を使えるのだから、早く慣れておくほうが良いだろうと思い、近くの介護支援グループに登録。顔見知りの御近所さんが介護を担当なさっていたので心強かった。主治医のA先生に「介護度3になった」事を報告すると、家に介護用の器具を付けるべきと言われた。それも役所で申し込んだ。やがて介護用器具設置委員が我が家へ来て、部屋の間取りなどを図り、どのような器具が必要か?などを記録した。数日たって介護用器具がとり付けられた。主に手すり。足元が危ないので転ばないよう、つっかえ棒を取り付けた。12畳位の居間に4~5本位の柱が立てられた。見栄えは良く無いが転ぶよりは良い。風呂場には椅子を置きそれに座って洗うようにと言われた。暫くは転ばないよう気を付けて入浴をしたがそのうち立位(りつい)で風呂場にはいられなくなってきた。疲れるのだ。数分は立っていられるのだが10分もするとへなへなとしゃがみこんでしまう。筋肉が弱くなっていた。台所でも立ったままでいられなくなった。すぐに座りこんでしまう。料理も続けられなくなっていた。掃除もできなくなる。矢張りサービスを使い、風呂場の掃除なども1時間いくら単位でお願いした。

     料理も出来なくなったので、宅配を頼むことに決めた。美味しいの何のと言えなくなった。自分の分だけで良いので楽になったが、食堂のテーブルが殺風景で悲しくなった。以前のようにあれこれ考える必要なくなったが年取ることの侘しさが身に染みた。買い物は主に、季節の旬の野菜、果物は手に取って確かめたいので介護支援グループに頼んで、1時間いくらで同行をお願いした。車椅子の私を押して近くのスーパーまで連れて行ってくれて、買い物に付き添ってくれて荷物を持って帰宅して、次回の同行日を決めてその日は終わり。庭仕事も出来なくなっていたので時々、杖をついて庭に佇んで花を見たりと外の空気を胸一杯吸うのが唯一の楽しみになった。そのうち近くの「リハケアセンター」で1日を過ごせるようになった。

     いわゆるデイサービスである。介護保険を使った。朝8時半に車が迎えに来てくれた。それから、そこで午前のリハビリ、昼食、午後のリハビリが終わると、自宅まで送り届けてくれた。後は自宅でシャワーを浴びて、軽い宅配の夕食を取り、ソファにうずくまりテレビを見て、2階の寝室までゆっくり階段を上り、ベッドに入った。ある朝、自分で無意識のうちに脳梗塞、レイノー症で低体温で居間の床に倒れていたらしい。丁度買い物に行く日だったので、介護の彼女がいつものように庭先に馬場さんの姿が見えないので、おかしいと思い家に入ると、そこで私が失神して倒れていた。彼女は救急車を呼び私は救急病院に搬送され、そこで2か月ほど養生することになった。そこでは食事が口に合わず、ひどく体重が減ってしまったので、リハケアセンターに暫くお世話になることになった。

    2か月ほどそこで過ごすうち、やはり自宅に帰るよりは、今のうちに施設に入るほうが安心出来ると実感したので、特養の施設を希望した。しかし世田谷区には開きが無く、すぐに入れる施設がなかった。だが区外の施設なら明日にでも入れるということで、東京の外れにある西多摩郡の日の出町にある特養に入ることになった。そこでは見ず知らずのお年寄り達が「姨捨山」に捨てられたように寂しく暮らしていた。誰とも友達にはなれず東京の友達とメールをしたり、アイホンで話をしたりして約半年暮らした。そこではリハビリが充分でなかったので、リハが可能で、友達に逢いやすい場所の施設に入ろうと調べ探して、狛江にある有料の施設には、リハビリがあることを知り、そこに入ることにした。

     確か2019年の10月に引っ越した。コロナが流行り始めた頃である。そこの入所者さん達は日の出の入所者さんとは違い、かなり元気であった。そこで話の合う方と親しくなった。英文科を出られているので、話が合った。面白い本等の紹介をしあったり、昔観た映画の話をしたりと気持ちは若やいだ。リハも、先生と気が合ったらしくお話するのが楽しかった。コロナ禍では中止になっていたが、通常なら希望すれば、定期的に展示会などに付き添ってくれたり、クリスマスにはクルーズ船上でディナーを頂いたりも出来た。月に1度は、横浜のあるパン屋が出張してくれて、好きなパンを買うことも出来た。これもコロナで中止になったまま。のんびり贅沢に過ごすうち、アッと言う間に老後資金が底を着いてしまった。5年前に砧の自宅を売却して約5千万円残っていたがいつの間にか残り少なくなる。丁度前年に申し込んでおいた特養から「開きが出来たので」特養に移れることになった。有料の半分の料金で済む。暫くはほっとした。ここでは、精神的に不安定な認知症のお年寄りがほとんどなので、仲間には入れない。楽しい会話も期待出来なかったし、話したいと思う人もいない。週1で施設に足を運んでくれる友がいてくれるので、それだけが楽しみになっている。今は老後資金も底を着き、生活保護を申請中なのでお金は使えない。少しづづ未払い分の借金を消せたら嬉しい。今は破産状態なんだが施設に入っていられるので3食食することもできるし、個室で暮らせている。これだから自分を貧困状態とは実感できないんだ。良いことなのか、良く無いのかが分からない。

   介護認定から一連の手続きについて書いてみた。幸運なことに、気が付くのが早かったため、身体がまだ動けるうちに、対処出来良かった。老後の事は、早めに頭に入れておくべきと思う。知っていると知らないとでは雲泥の差。やはり自分だけでは、どうにもならない事が多いのが老後。他人のお世話にならないでは暮らせない。地域の包括センター等の公共機関でお世話になるしかないので、地域の施設などを知り、利用の仕方などを、学んでおくべきと思う。独りで悩むよりは、社会に助けてもらう気持ちで公共機関のお世話になるしかない。

   年をとったら、無理せずに社会の一員として暮らすのが良い。独りで云々ではなく、誰かに意見を聞き、良く考え生活するのが良さそう。小さな事・出会いがきっかけになり悩みが解決するかもしれない。


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