自分には「思い出」しか残っていないとしみじみ思う事がある。80近い自分に「思い出」だけでも残っていれば良いとさえ。(物質的な金銭や宝石でなく)「思う・想う」という言葉の音は温かい。ついでに英語ではMemoryだが「思い出」に比すると質感が薄いかも・・。Memoryという歌をエルビスプレスリーが切々と歌っている。“Memories between pages of my mind,between through ages like wine・・・”
「思い出」ってふとした瞬間に蘇ることがある。ある音が聞こえたり、ある色が目の前に広がったり、あるものを味わったりすると蘇る情景や出来事がある。一人一人の思い出はそれぞれが違う個性を帯びている。だから友達と会うのが楽しみで仕方ない。誰かが思い出すことがあると自分の思い出も一緒に蘇る。日が照っても陰っても、思い出の色も音も味さえ変わる。空気に触れて変質する。錆る(さびる)のだ。時々は錆び落としをして思い出を磨かねばならない。静かに雨の降る朝などに雨音を聴きながら思い出のさび落とし、これも楽しみだが矢張り少し寂しい。多分一番楽しく嬉しいのは友達とテーブルを囲んで、美味しいお茶を飲みながら懐かしい思い出に浸れる時間なのかも。微かな錆の色(古色)も悪くはない。
「記憶」って「思い出」に近いが矢張り違う。「記録」の記があるかせいか文字上のことのように響くし、又数字上のことでもあるようだ。数字でも文字でもなくある経験の総体・・・空気と言っても良いのかも・・・「思い出」って素敵な言葉だと思う。
ある映画『風の絵師』の主人公の画家が「何を描くのか?」と聞かれ「ある懐かしさです」と答えているのが忘れられない。何か(この世の)懐かしさに出会うことが芸術の醍醐味だとすればやはり「思い出」は総ての芸術の根源なのかもしれない。
例えば一枚の何気ない写真、シロツメクサ・クロバーが一面に咲く野原の写真、それを見ているとクローバーの花の香りが漂ってくる。花の蜜を集めに飛んでくるミツバチたちの羽音まで聞こえるようだ。そんな時間の温度まで蘇ってくる。その時間を共有できた友達の笑顔まで蘇ってくる。こうした時間の思い出が分厚く重なりあって自分の人生になってゆく。
画家たちが描いた花の絵を見るのがこの上なく好き。例えばルドンの「野の花」、モネの「スイレン」、ゴッホの「アイリス」「向日葵」、マネの「赤い罌粟の花」等。友達の画家の「からすうりの実」「咲終わった紫陽花」「トケイソウの花」も好き。
食器に描かれた矢車草の青い花にも不思議な郷愁を覚える。古今東西に限らず植物には不思議な魅力がある。
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