私の町は小田急線の「祖師谷大蔵」にある砧(町)です。昭和24年頃疎開先(福島・郡山)から移住してきました。以来75歳まで暮らしていました。我が町と呼べる町の昔を思い出してみます。終戦直後砧村には広い田畑が広がっていました。大きな農家が地主になり管理していたよう。父は祖師谷地区にある成城小学校1917(大正6年)(沢柳政太郎博士が創立した)の教員として勤め始めていました。国民小学校で教えるような軍国主義的な教育ではない新しい理念(戦後民主主義)に基づいた新しい実験的教育を始めようと志していました。この辺の事情は『ダルトンのこだま』今田述著に詳しいので参照。父の職場から程遠くない砧に土地を100坪ほど買い受け、小さな家を建てました。何度か増築することになりますが、始めは6畳2間、10畳ほどの父の書斎・書庫、台所、風呂場がありました。水道も都市ガスも通っていなかった。ですが美味しい井戸水が湧いていました。風呂は井戸の水を汲み薪で火をくべてお湯を沸かしました、燃料には練炭・炭火・プロパンガスを使い火を賄っていました。台所でプロパンを使えるようになったばかりの頃です。便利な物(所謂冷蔵庫、洗濯機、テレビの3種の神器)など何もないところからの生活。両親は30代後半で若かったから、我々姉妹を育てながら新しい戦後「教育」を模索していました。父の業績の1つに『教育改造』という職員仲間との研究誌があります。実験的なものもあり、成城の「教育研究所」に収められています。その他父は児童の為の本(主にポプラ社出版)『シュバイツァー博士』『野口英世』『ウオルト・ディズニー』「宮沢賢治』等の伝記を物しました。
父の人となりは父に習った生徒さん達の証言を聞くしかありません。良く「馬場先生の授業は楽しかった」と聞きます。私は私人としての父しか知らないので「学校の先生」としての接点がなかった。家庭人としての父に怒られるとひどく怖かった。嘘は一切許されなかった。一番嫌いな事はどこかに遠足・旅行等に行くと必ず「文章に書いておけ」と殆ど命令したものだ。書こうと思っているのに降圧的言われると緊張もし委縮もしてしまう。このような心理を理解してはくれなかった。多分父は教師(先生)であればもっと優しく接してくれたのだろうと思います。自分の家族には家長としての父親としてきつく接したのだろうと今になって思います。ですから父は私には決して優しい先生ではありませんでした。家にいる父は小うるさい父親でしかありませんでした。留守中に父の部屋へこっそり入って書架を眺め父の机にある万年筆を触ったりすると後で「触ったなら元通りに」などメモを残していました。小うるさいと感じたものです。ですが教育方針は「自学自習」余り丸暗記はさせなかった。生活も自主的に、放任に近かった。絵を描いたり友達と遊んだりは応援してくれていたよう。一人一人の個性を伸ばすよう心を砕いていたよう。虫が好きでいつも遅刻のX君、道端で虫に夢中になり遅刻でも決して怒りませんでした。その代わり虫の話を皆の前でさせてクラスの友達と共有させたようです。皆に順番が回るよう回覧形式でクラス日記を付けさせていました。父兄たちも目を通しクラス全員で授業に参加していたようです。
本を読むのが好きな子たちはグループになって読書会をしたり「・・・ごっこ」など皆で工夫して劇を作ったりした。その他能役者の息子は家に早く帰宅し毎日猛練習、後に無形文化財保持者となった。ある子はバイオリン奏者になりカナダで活躍し、数年に1度帰国し父に会いにきた。ある子はワインのシュバリエ(フランスで大変の難関を突破し)になったそう。眠っている才能を伸び伸び育てるのは父の生き甲斐であったよう。
唐突だが我が小さな家はの周りにはキャベツ畑、麦畑、菜の花畑、胡麻畑などの畑があり春には白い紋白蝶がひらひらと舞った。古い写真が残っているが谷内六郎の絵を彷彿とさせる長閑な田園風景であった。家の前の300坪ほどの原っぱはススキで覆われ子供達の格好の遊び場であった。バッタ、カマキリ、カブトムシ、(夏には)アブラゼミ等は皆我々の遊び友達。車の数も少なかったから廃棄ガスの匂いもしなかった。空気は綺麗で心地良かった。小田急線も通っていたが村の道路はまだ舗装されておらず雨が降るとぬかるんだ。今(令和6年)の便利な生活に慣れた我々には厄介である。我が家から祖師谷駅までの2キロほどの道路沿いには米屋、酒屋、魚屋、味噌屋、洗濯屋、八百屋、靴屋、煎餅屋、下駄屋、傘屋、牛乳屋、氷屋、おもちゃ屋、御菓子屋、本屋、蕎麦屋、豆腐屋、おでん屋、風呂屋、パチンコ屋などが軒並み並んでいた。若かった店長も今では引退し息子達が店長になっている。世代交代なのだ。大手のスーパーに小店舗は吸収されてしまっている。店長と顔馴染みでも昔話に花が咲くこともない。昔の話が出来る顔馴染みももう少ない。寂しい街になった。きっとどこでもそう。良き時代は夢のように消えた。
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